東日本大震災が発生したその時、養護教諭はどのように動き、現在まで児童生徒を支えてきたのか。あの時、学校で被災した児童生徒も多く、また、学校は避難所となり混乱状態であった。あの未曾有の災害を前に、養護教諭として危機管理について改めて考えた人も多いだろう。今年2月に行われた、全国養護教諭連絡協議会の第18回研究協議会でも発表した仙台市の伊藤香奈養護教諭に、当日から現在までの対応を紹介してもらった。
―宮城県仙台市立高砂中学校/伊藤香奈養護教諭―
■本校の概要
本校は宮城県仙台市の東部、七北田川の河口から約3キロメートルの川沿いに位置し、学区は4つの小学校区からなっています。震災当時は生徒数621名、教職員53名で、震災以前から生徒指導上の理由で養護教諭複数配置校となっています。
■本校の被災状況
○校庭130センチメートル程度水没、校舎1階20センチメートル程度浸水(保健室も)。1階水道は約1か月後に復旧。
○体育館耐震ブレス全損のため体育館および武道場は使用不可。→約2年間使用不能。
○当時の生徒の自宅被害…全壊51名、半壊72名、床上浸水191名。
○生徒は全員無事。親やきょうだいを亡くした生徒は複数。
■養護教諭の動き
【震災当日】
3月11日は卒業式前日でした。保健室に生徒はいなかったので、救急バッグを持ち出し校庭に出て生徒の避難誘導と健康観察を行いました。地震直後は過換気発作を起こす生徒が数名おり、寄り添いながら一緒に屋上へ避難しました。屋上からは川を逆流する黒い津波が見えたので、興奮する男子生徒たちに川を見ないように声を掛け、パニック状態の女子生徒に付き添っていました。
大津波警報解除後、校舎内に移動するとすぐに避難者の救護に追われ、避難所救護係としての役割を求められました。
【校内が安定するまで】
避難所の救護活動は、近隣の医療従事者や自衛隊員らに支えられながら、何とか最初の1週間を乗り切りました。
被災から約1週間後には新潟市の養護教諭の派遣や他県の保健師チームによる避難者対象の巡回相談、医療チームによる保健室での診療所開設があり、養護教諭は避難所運営に関してサポートに回ることができました。
保健室が診療所になっている間、養護教諭は主にボランティアの窓口になり学校再開のための環境整備を行いました。
市教委からは精神科医を含む心のケア緊急支援チームが派遣され、心のケアの専門家と連携しながら生徒の心のケアに当たりました。
また、心のケア研修会には積極的に参加して教職員対象に伝達講習を行い、保健室では生徒が安心・安全感を取り戻せるよう健康相談に時間をかけました。
【安定期から現在】
子どもたちの心のケアに関しては、現在も継続的に心と体の健康調査を実施し、教職員や専門家と連携して対応に当たっています。
また、小学校の養護教諭からの引き継ぎを丁寧に行い、被災の程度や要配慮事項をまとめて全職員で共有しています。震災から2年経った今でも、余震や津波警報のサイレンで泣き出す生徒や、防災に関する授業で気分不良を訴える生徒がおり、子どもたちが辛い震災の記憶を乗り越えるにはまだまだ時間が必要なのだと感じます。
【自然災害への備え】
恥ずかしながら、私自身備えが十分だったとは言えません。私は今回の経験から、危機管理として災害対応マニュアル等の資料をまとめておくことはもちろんですが、何より普段から養護教諭としての資質を高めておくこと、ともに支え合える教職員や養護教諭仲間を増やしておくことが大切なのだと痛感しました。
養護教諭一人でできることには限界があります。信頼できる仲間がいれば、何があっても乗り越えられる気がします。
【2013年7月15日号】
【2013年7月15日号】