1755年11月1日、ポルトガルの首都リスボン市を大地震が襲う。折しもこの日は、カトリックの祭日「万聖節」で、人びとが教会で祈りを捧げているさなかに地震が起きた。西ヨーロッパの国々や、北アフリカのモロッコなどでもかなりの揺れを記録している。
リスボン市は80%の建物が倒壊。当時の人口は約25万人だったが、約4万人前後が建物の下敷きとなり犠牲となる。建物の倒壊から逃げ延びた市民は、港や空き地などに避難していたが、やがて海水が沖へと引くと一転して津波が襲来。津波の波高は6~15㍍に達し、猛烈な勢いで市街地を呑み込み、被害を拡大させた。津波は繰り返し襲来し1万人が犠牲となった。一方、津波による被害を免れた市街地も、火災によって焼き尽くされる。火は1週間以上も燃え続け、王宮や行政機関の建物を焼失し、首都機能は完全に麻痺。国家の運営に支障を来した。
ポルトガルではリスボン市以外でも、国土の南半分を中心に大きな被害が出たが、特にアルガルヴェ地方の被害が大きく、南西端のサグレスは波の高さ30㍍もの津波に襲われた。
ポルトガルはリスボン地震を境として、長期衰退の道をたどることになる。かつては重商主義政策によって、スペインとともに世界の海を二分するほどの力を持った国家だったが、震災復興のために莫大なコスト負担が発生し、二度とその地位に戻ることはなかった。
リスボン地震によるポルトガルの衰退は、日本にとっても貴重な教訓である。政治・行政や金融・経済活動が過度に集中する都市や地域が、大地震に見舞われた場合に、国家の存続(国力の維持)がいかに難しいかを物語っている。
日本でも歴史上、自然災害により崩壊した政権があることをご存知だろうか。日本史の教科書では、明治政府は戊辰戦争で官軍が徳川幕府軍に勝利したことだけが書かれている。だが、戊辰戦争の敗北だけで徳川幕府が終焉した訳ではない。幕末期に日本を襲った地震や風水害、感染症の流行が幕府の屋台骨を揺るがすことになった。
僅か4年間に、安政東海・南海地震で約3万人が犠牲、安政江戸地震では約1万人が犠牲、安政江戸暴風雨では約10万人が犠牲になった。さらに安政のコレラ大流行により、江戸だけで約3万人の犠牲を出した。
災害後の復旧事業や感染症対策への財政出動により、幕府の財政が急激に逼迫したことも、徳川幕府の屋台骨を揺るがし、崩壊する原因の1つとなったのである。
教育家庭新聞 教育マルチメディア 2025年4月21日号掲載