いま教育現場では、もちろん全てではありませんが、偏差値のように、子どもの能力の一部に優劣をつけることで奮起させたり、その一方で、運動会で順位をつけない等、あえて優劣をつけないような配慮も期待されています。このように保護者や社会からの多様な価値観や要求に応えようと、先生方も文字通り、毎日、神経をすり減らし歯を食いしばって頑張っています。働き方や労働環境からいえば、今の学校現場は「いつ、誰が倒れても不思議ではない」状況です。担任の代わりはいますが、○○先生の代わりは誰もいません。
学校不信の保護者対応や不登校問題等、先生方の扱う問題が、年々複雑化・長期化しています。ひと昔前なら、学校行事等の際に、「先生もまだ若いんだから頑張って」と差し入れをしてくれた保護者がいました。そのような、若い教員を育てようという保護者や地域の熱意が下支えとなり、教員は一人前に育ちました。
今はその下支えがなくなったばかりか、敵対勢力と化して、先生方を孤立させ、追い詰めている大きな要因の一つになっているのは、皮肉なものです。その原因の一つは、親自身が家庭や地域で孤立している場合が多いようです。
ある中学3年生の男子生徒K君は、足が速く、3年間、100メートル走では誰にも負けませんでした(優越感)。推薦で陸上部の強い高校へ進学したのですが、ふたを開けてみれば、自分よりも足の速い人が大勢いることを知り、挫折して不登校になってしまいました(劣等感)。
子どもは、自分がどんな資質や能力を持っているかは、他者との交わりの中で発見していきます。他者と比較することで、自分が何者であるかを知り、自分をつくっていくといっても過言ではありません。ここでいう比較とは、「優劣」ではなく「異同」のことです。
〇優劣=他者と比較して、違っている部分を優れている、劣っているという視点でみること。
〇異同=他者と比較して、違っている部分を素直にどこが似ていて、どこが違うのかを認めること。
「A君はできるのに、どうしてあなたはできないの?」とか「同じ兄弟でも、なぜこうも違うのかしら」などは優劣です。一方「A君は僕と同じように足が速いけど、シュート力は僕の方が上だな」とか「Bさんは私と同じに明るいけど、私にない気配りができる」というのは異同です。
教員が行う指導の中で気をつけたいのは、「みんなと同じようにできないこと(異同)」=「劣っていること(優劣)」と子供に伝わっているものもあるということです。
本音では「一人ひとり違っていることは、素晴らしい」、「そのままのあなたで大丈夫」とわかっているのに、実際には評価をつけざるを得ないために「できるーできない」「頑張れるー頑張れない」等の基準で、子どもに優劣をつけている自分自身が許せない。つまり、「こうありたい自分」と「現実の自分」が乖離している(自己不一致)ため、教師の役割と自分の本音との狭間で揺れている自分を、必死でなだめながら、毎日、子どもや保護者と向き合っているのではないでしょうか。このような感情が教師ストレスの本質の一部とも考えられます。
優れた教員とは、いつも子供のところまでおりていきます。ところがそうできない教員は自分の目標のところへ子供を引き上げようとするのです。つまりわからない子供はほったらかしです。手がつけられないのです。そのような中から、不登校を選択する子供が現れても、誰もその子供を責められませんよね。
筆者=土井一博(どい・かずひろ)順天堂大学国際教養学部教職課程客員教授、日本教職員メンタルヘルスカウンセラー協会理事長、埼玉県川口市教育委員会教職員メンタルヘルスチーフカウンセラー
教育家庭新聞 健康・環境・体験学習号 2018年11月19日号掲載