来年のNHK大河ドラマは、会津藩に生まれ、髪を切りスペンサー銃を持ち「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれ戊辰戦争を戦い抜いた新島八重(旧姓・山本八重)の姿が描かれる。会津での戦いの前に、福島県では「白河口の戦い」と呼ばれる熾烈な戦が繰り広げられたことを知っているだろうか。この戦の舞台となった白河市周辺を取材した。(ライター/國吉圭介)
新政府と同盟軍の 熾烈を極めた戦い
白河小峰城(上)と戦没者碑(下) |
江戸時代末期に起こった戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから1869年の箱館(函館)戦争までの戦いをさす。1869年が干支で戊辰(つちのえたつ)の年であることからこの名前がついた。
初戦の鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府側は官軍、徳川方は賊軍と呼ばれ、体制は新政府に従順となる。白河では100日に及ぶ奥羽越列藩同盟軍(以下、同盟軍)との戦い「白河口の戦い」が繰り広げられた。
この戦いは、南東北の要地である白河小峰城(以下、白河城)をめぐるもの。白河城を占拠していた同盟軍は、新政府軍の猛攻を一度は耐えしのいだが、白河城を巡る攻防戦は熾烈を極めた。
少数精鋭の新政府軍による巧妙な作戦と圧倒的な武力で、白河城はあえなく落城。両軍の銃器の差は、白河駅近く「白河戊辰見聞館」の展示を見ると一目瞭然。同盟軍は射撃飛距離が50〜100メートルで、さらに射撃までに時間のかかる「先込め火縄銃」、新政府軍は「有鶏頭7連発ライフル銃」と呼ばれる射撃飛距離が500〜1000メートルのものを使用していたのだ。
両軍の死者を弔う 稲荷山の慰霊碑
激戦地・白河には50以上の墓や慰霊碑があり、生々しい様子が各家々で語り継がれている。白河口の戦いの主戦場・稲荷山は、「稲荷山公園」として整備されつつある。
稲荷山の麓には、同盟軍・会津藩戦死者の慰霊碑と墓があり、道を挟んで反対側には新政府軍・長州藩と大垣藩の墓がある。敵味方なく両方の墓が、戦死の碑として建てられ、市内20か所は見学も可能だ。戦争の悲劇を「うらみ」として残すのではなく、両軍の戦死者を手厚く葬り、今なお供養し花を添える地元の人々の思いが伝わる。
「白河小峰城」は、1632年に複合層塔型3重3階の櫓で天守閣として建てられた。3重櫓は戊辰戦争で焼失し、1991年に復元。
東日本大震災のため石垣等が壊れ、現在は立ち入り禁止。公園内の「白河集古苑」は歴史資料館として見学ができる。
今なお残る建造物 歴史の痕跡を辿る
昔からの面影が残る大内宿 |
戊辰戦争では、ほとんどの宿場が焼かれたが、下郷町にある「大内宿」だけはその街並みを残し、年間120万人の観光客が訪れる。地区をあげて茅葺屋根を保存し続け、現在も一般住民が居住し、重要伝統的建造物群に指定されている。
白河市内には「白河宿脇本陣柳屋旅館跡」があり、現在は一般公開していないが、新撰組や明治天皇の宿泊所として利用されていた。
また、現在では「谷津田川せせらぎ通り」と呼ばれ散策にもおすすめの場所がある。近くには多くの寺があり、同盟軍の墓や碑を捜してみるのも興味深い。その他、天栄村の道の駅「羽鳥湖高原」周辺では、新政府軍の攻撃に備えた「馬入峠堡塁(ほうるい)跡」を見ることもできる。
福島県は明治維新を身近に感じられる数少ない地域。鶴ヶ城での戦いの前に、白河城での熾烈な戦いがあったことを日本人として学んでほしい。
【2012年12月17日号】