このコラムの第1回で、「読者の皆さん一人一人が情報モラル宣言をしてほしい」と書いたが、この連載も残るところ3回ほどになった。ACCSでは10年ほど前に、「情報モラル10か条」を作り、インターネットやケータイの時代に意識しておくべき事柄をまとめたのだが、私個人の「情報モラル宣言」として、これを更改したいと考えている。
情報モラル10か条
当時は、インターネットやケータイを子供たちが使い始めた頃だったが、その危険性や、私が感じた危惧をまとめた。例えば、デジタルデータは簡単にコピーできることから、著作物や個人情報の扱いは慎重にしてほしいと考えたし、インターネット上に掲載されたデータは永遠に回収できないことも指摘した。
また、当時でも、インターネット掲示板でのコミュニケーションではネチケットの大切さが言われていたし、用件を伝えるのにメールやケータイだけで済ます風潮も既にあり、そのことへの警鐘も盛り込んだ。
まだケータイメールは今ほど頻繁に使われていたわけではなかった。むしろパソコンを使ったメールやインターネット掲示板での問題が指摘され始めていた頃だ。しかし、10年経って、残念ながら私の危惧はより強くなってしまった。
気になる日本人の表情
最近よく仕事で海外に行く。帰国したときに毎回思うのは、日本人の元気のなさだ。能面のようで生気がないくたびれた表情でケータイに目を落とし盛んに指を動かせている。都心に近づくにつれ、くたびれた表情の人が増えるようにも思う。特に、イタリアや中国から帰ると、日本人の活気のなさを思わずにいられないのである。
日本での日常生活においてもコミュニケーションの崩壊が気になって仕方がない。休日のあるレストランでのことだ。お父さんは新聞を読み、お母さんはケータイメールに忙しく、子供はゲームに夢中になっているという家族を見た。家族で外食に来て、話をしない不自然さを思うのである。しかし嘆くのは止めて、五感・六感をフルに使う生きたコミュニケーションを取り戻すために、ツールとしてのケータイやネットをどう捉え直すかこそを考えるべきだ。
情報モラル宣言へ
私の情報モラル宣言ではこういう時代に合わせたものにしたい。例えば最近、柳田邦男『壊れる日本人』(新潮文庫)を読んで共感したのだが、この中で著者が強調している「Noケータイデー、Noネットデー」を作るべきだと私も思う。
また、デジタル・ネットワーク社会では、誰もが著作物の利用者であるとともに著作者にもなれる時代である。言葉の力を見直しつつ情報発信力としての創作活動に注目してもいいと考えている。創作の価値を理解することが、他人の著作物を尊重することにつながるし、他人の気持ちを尊重するきっかけにもなるだろう。
次回に改めて詳しく触れていきたい。
【2007年12月1日号】