今年8月に佐賀県で開催された全国養護教諭研究大会において、「養護教諭制度70周年」を記念し、256名の学校保健功労者が文部科学大臣表彰を受けた。児童・生徒の心と体の健康を支える学校の大きな柱として活躍した受賞者の功績をたたえ、今後の養護教諭資質向上を応援すべく、今年度末まで受賞者のインタビューを連載予定。初回は、秋田県の三浦サチ子さん。
秋田県美郷町立千畑中学校での勤務を最後に、平成21年度で現役を退いた三浦さん。高校卒業後に上京し、自衛隊中央病院婦人自衛官養成所へと進む。「経済的なことを考えると給料をいただきながら学ぶことができるのが決め手でした」。とはいえ、実は「教員」に興味があり、後ろ髪を引かれつつだったという。
卒業後は同院で2年間勤め、結婚をするため帰郷。女性が家庭と仕事を両立することが難しかった時代、「夜勤のある仕事ですので悩みました」と振り返る。今度は看護師の仕事に後ろ髪を引かれながら「それを生かせる仕事を」と、県立衛生看護学院へ入学し、保健師と養護教諭資格の取得を目指した。
昭和49年、最初の中学校へ。今のように保健室に大勢来る時代ではなかったが、4、5年経ち、メンタル面で悩みを抱える子が保健室を訪れる時代に突入した。職務に慣れてきた頃、時間をみつけては、保健指導用の資料を作り始めた。「保健体育科の先生に、授業に入れないかお願いしてみたのです。今思うと勇気がありますよね」。
最初のテーマは「命」。動物の人工受精を導入に、命の尊厳について考えるものだった。「いずれ人にもそういう時代がくるだろうと考えてのことでしたが、大胆でしたね」と笑うが、子どもたちの一生のなかで、いつか役に立つかもしれないと思ってのこと。
その頃、専門誌でようやく取り上げられるようになった「保健集会」。保健集会は健康教育を浸透させる場と考え、保健委員会を核にして保健集会を重ねていく。転勤するたびに学校の状況に合わせて検討を繰り返し、毎日「絶対に手を抜かない」姿勢を貫き、100%の力を出し切る保健室経営や保健集会を目指した。「それが私流の子どもたちへの礼儀でした」。
今思えば笑いごと…という話も。ある小学校にいた時のこと。学校行事研究会の全国大会会場校となったその学校は、各行事部で指導案を作成し、本にまとめることになった。三浦さんが所属する健康安全的行事部では「私の健康」がテーマだったので、「健康といえば養護教諭、養護教諭といえば私、と夢中で指導案を書いて初回部門別会議に提出したのですが…」実は担当ではなかった。
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しかし、その思いを汲み取った担当教員が指導案を取り上げて掲載してくれた。「あの時は先生方の温かさに感謝し、信頼関係の大切さを痛感しました」。
ようやく自分の「養護教諭スタイル」が確立できたと思えたのは、退職の数年前というが、毎年続けてきたことがある。自分の仕事を評価する際に、「今年はここが一つ前進した」と言えるような仕事をすること。「1年に1つ、たとえどんなに小さなことでも、30年やれば30の積み重ね。これを続けたことで、私は決して後ろ向きになることはありませんでした。そして自分がこれと思う得意分野を見つけて継続して取り組むことが、自信につながり、周囲からも頼られるようになります」。
教員にあこがれながらも一度は看護師の道へ、そこから養護教諭になった三浦さん。なるべくしてなった養護教諭なのかもしれない。
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【2011年10月17日号】