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(前編のあらすじ 小学校6年生まで勉強も友人関係も上手くいっていたSさんは、同級生との付き合いから孤立感を高め、言葉のイジメから中学入学直後に不登校に。その後、様々な葛藤を経て、隣町の学校へ転校することになった)
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転校が許された中学での生活は、私に沢山の力を与えてくれた。先生方は皆、私が不登校だったことや越境してやってきたことを理解してくれ、クラスの人たちもとても優しかった。居心地が良いと感じられる学校だった。それでも私は、転校して3日程で息切れを感じていた。自分が対人恐怖に陥っていることに気付き始めのだ。もう、私を罵る言葉など聞こえないのに、クラスメイトが怖い。私は焦ったが、先生や教育委員会の方々はそういう事態を少し予測していたらしく、保健室登校を勧めてくれた。それから3年生になるまで、保健室登校をした。保健室ばかりでなく、図書室、心の相談室という3つの居場所を作ってくれた。どの部屋の先生もまるで第二の母のように接してくれて、今でもよく遊びにいく。また、同じく保健室登校をしていた先輩後輩と出会えた。同じ気持ちを共有出来たためか、すぐに仲良くなれた。3年生になり、受験を意識し始めたこともあり、少しずつ教室へ入ることになる。きっかけは、修学旅行だった。私は皆と行ける自信がなかったが、養護の先生が同行することもあり、勇気を出して行ってみることにした。それまでに、班の人と触れ合う機会を作ってくれたり、クラスメイトが声をかけてくれたり、本当に、周囲に支えられての修学旅行となった。修学旅行後から、まずは国語、次は数学も、理科も…という具合に教室に入り始めたのだ。それでもやはりとても緊張した。1時間ガチガチになって、保健室や図書室へ戻って先生の顔を見てホッとする、ということを繰り返した。緊張はする。教室に行くのも精一杯。だけど私はこの中学校が大好きだった。今も、もちろん大好きである。
ある日、母が言った。「これからはリハビリだからね」。学校へ行く足も気持ちも停止してしまった私には、少しずつ少しずつ外へ出て行く必要があった。そのため、例えばスーパーなどへ行くのも、陶芸に行くのも、同年代の子と話すのも、全てが「リハビリ」だった。母は買い物に行くときなど、「リハビリ、リハビリ」と言って私を連れ出してくれた。少しずつ段階を上げて、出来ることを増やしていく。いや、取り戻していくと言った方がいいかもしれない。リハビリの延長上には、学校へ行くこと、高校へ進学すること、そして今があった。受験に失敗したりもしたが、高校へは3年間通い通すことが出来た。辛くて登校中に逃げ出したこともあったけど。久しぶりに、自分の全てをさらけ出せる友達とも巡りあえたし、生徒会長まで務めてしまった。不登校になった時の私とは、まるで別人のようだ。だけど私は、失ったものを取り戻すかのようにリハビリを重ね、今あくまでもその延長線上にいる。その過程で、家族や先生達は本当に沢山手助けをしてくれた。もちろん、家族と衝突したこともあった。反抗期には、母にばかり当ってしまい、二人の関係が悪化して、家に帰りたくない日が続いたりもしたものだ。そういう時、先生達は呆れもせず私の話を聞いてくれた。本当に小さな一歩一歩が重なってここまで来たのだと思っている。
傷ついた部分は深かった。そして、私の時計は周囲よりも遅く回っていた。けれど私はこの時間の中で「人の痛みを察する」ことを身につけた。あの時立ち止まっていなかったら、人を傷つけても気付かないままの人間になっていたかもしれない。だから私にとって不登校は、必然だったし必要だったのだと思っている。あの経験は、私が今生きていく上でも大きな糧となっている。
もう一つ、私が立ち上がる原動力となったのは、ミュージカル俳優になりたいという夢だった。小学4年生の時抱き始めたこの夢がどうしても諦められず、転んでも転んでも立ち上がってきたのだと思う。数年越しにやっと、その夢を叶えるべく私は動き出した。ありきたりな言葉に聞えるかもしれないけれど、夢の力は大きいのだと思う。
不登校になる要因は、人それぞれ違うだろう。私も、イジメだけではなく、自分の性格や家庭環境、育った地域性など、二十歳になった今考えると思い当たる要因はいくつもある。でもこれだけは言える。不登校は恥ずかしいことではない。立ち止まって、SOSを発信出来ている証拠なのだから。問題は、どう立ち上がるかではないだろうか。SOSを受け止めてくれる誰かがきっといる。そして、何度失敗しても、何度絶望しても、小さな夢さえあれば明日に繋がっていくんだよと、今不登校で苦しんでいる子達に伝えたい。そのために手助けできることがあれば、私はいつでも手を貸すつもりでいる。こんな私の体験談でも、誰かの、何かの、参考になればと、ここにつたない言葉を残したい。
(第1回 了)