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私の体験談「子どもの心を考える」
不登校を越えて 前編
いまを生きる糧、不登校〜
寄稿−大学生・Sさん

 今から7年前、私は不登校になった。中学1年生の春だった。あの頃のことを振り返ると今でも胸が痛む。か弱くて、苦しそうで、途方に暮れた顔をしてる。人の視線すら怖くて、ガチガチになって自分の席で縮こまっている。不登校になる直前の私は、そんな女の子だった。中学校に入学して間もないある日、我慢が限界に達して学校に行く足を止めたのだった。

 原因を探ろうとすると、小学校6年生の頃に遡る。それまでの私は、勉強も運動も学校行事も友人関係も上手くいっている、いわゆる優等生だった。だが、ある日突然「学校」という世界がガラリと変ってしまった。女の子というのはいつまで経ってもそうなのだが、グループを作ったり、くっついたり離れたりということを繰り返す。私は、そういう動きが好きではなかったし、ついていけなかった。それでいいと思っていた。

 しかしある時、親友と呼べた友達との仲が希薄になってしまい、何となく私が孤立するという構造ができ始めた。登下校も一人でということが増え、家に帰った後の疲れが以前より大きくなった。「学校が嫌だ」そういう気持ちが私の中に芽生えてきたのもこの頃からである。そこに、追い討ちをかけるようにしてイジメのようなことが始まった。私の容姿を嘲笑する言葉、コソコソ笑う声。自分がターゲットになっていると気付いた時には、それらの言葉がクラス内に随分蔓延していた。自分がそんな風に言われていると知って、怖くなった覚えがある。ありふれた言い方だが、

 「傷ついた」

 それしか言葉が見つからない。その時からである。私が顔を上げられなくなってしまったのは。周囲は、私が何も気付いていないと思っていたらしく、いつまでも嘲笑の言葉を口にする。学校に通うのが苦痛以外の何者でもなくなった。その上、親にも先生にも相談することが出来なかった私は、逃げる術も自分を守る術も見つけられず、我慢、我慢の日々を送った。当時、顔つきや姿勢などに少しずつ変化が出ていた。力のない目と、常に緊張しきった口元。ずっと下をむいて悔しさや悲しみをやり過ごしていたので、猫背になっていき、肩も凝った。その延長で私は中学校に入学したので、ひどい緊張で友達も作れず、勉強も上の空だった。増してや全てが新しい生活。体に僅かに残っている力を振り絞って数日通ったが、ある日、我慢が限界に達した。親には、小学校を卒業した頃、イジメがあったことを話したが、私の状態はもはやそのことで救われる域を超えていたのだと思う。「このままでは、この子は死んじゃう」母は、私の様子を見てそう思ったそうだ。だから、私が「もう学校には行かない」と言った時、「あなたはおうちにいればいいから」と言ってくれた。

 その日から、物理的には楽なったはずだった。嫌なクラスメイトの声を聞くこともないし、ガチガチに緊張しなくていいのだから。しかし、「学校へ行っていない」という罪悪感が、自分を締め付けていた。「私はどうすればいいんだろう」あの時の気持ちは、言葉で表し様がない。今でこそ少し逃げること、力を抜くことを覚えたが、あの頃の私はそういうことを一切知らない。泣いたのか、喚いたのか、その日のことを私は思い出せない。だが、その日から外に出られなくなったことは確かだ。幼少の頃から通っていたお店にも、近所にある祖父の畑にも行けなくなった。もちろん、学校なんかには到底近づけない。昼間家にいることを知られたくないので、近所の人に会うのも怖かった。私のひどい怯え方を見た両親は、「ちょっと避難しよう」と言って、母の実家がある長野へ連れて行ってくれた。4月下旬の、夜中だった。

◇ ◇ ◇

 祖父母の家に行き、私は少し外に出られるようになった。散歩や、近所のスーパーへなら行ける。自分のことを知っている人がいないと思うと、安心できたのだ。少しだけ、自分の緊張をほぐすことが出来た証拠か、体に異変が起きた。元々小児喘息持ちだったのだが、過去ないくらいのひどい喘息の発作を起こした。そして、全身に蕁麻疹が出てしまい、両目が真っ赤に腫れ上がった。熱も出て、本当に苦しかった。この時初めて、私がどれだけのものを心の中に押し込めていたのか、周囲の大人は分かったと言う。それらの症状が治った頃には、自分でも少しだけだが落ち着いた。そこから、改めて私の不登校生活が始まったのだ。

 まだ不安定ではあったが、6月の下旬頃には学校に行かない生活に精神的に慣れただろうか。家では、生活リズムを崩さないようにと「朝は皆と同じ時間に起きる」と約束した。でもまだ家から出られない私を、父はよく夜のドライブに連れて行ってくれた。また、母は陶芸教室に一緒に通ってくれた。私の家族構成は、祖父母、両親、弟の六人。昼間は、祖父母がいるので話し相手はいたが、同年代との接触が全く断たれていた。そこで両親は、家庭教師の紹介所をあたり、勉強を教えるばかりでなく、話し相手になってもらえるような人を探してくれた。その結果、「先生」ではなく「お姉さん」と呼べる人に出会えたのである。お姉さんは、学校に行っていない間の勉強を補いながら、悩みを聞いたり、他愛ない話にも付き合ってくれた。お姉さんとは、今でも家族ぐるみで親しく付き合っている。引きこもりがちだった私の生活は、家族やお姉さんの計らいで少しずつ外部に開かれていったのだ。閉鎖された環境において、気持ちが引きこもってしまわないために大切なのは、外部と繋がる窓口なのかもしれない。

 そしてその年の12月、私は「学校へ行きたい」と思い始めた。だが、元いた学校へ戻る気はなく、隣の市の中学へ転校させて欲しいと両親に頼んだ。両親は、私の街の教育委員会、隣の市の教育委員会と忙しく走り回ってくれ、特例として転校することが許された。
後編へつづく〉


【2005年1月15日号】

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