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祖父母の家に行き、私は少し外に出られるようになった。散歩や、近所のスーパーへなら行ける。自分のことを知っている人がいないと思うと、安心できたのだ。少しだけ、自分の緊張をほぐすことが出来た証拠か、体に異変が起きた。元々小児喘息持ちだったのだが、過去ないくらいのひどい喘息の発作を起こした。そして、全身に蕁麻疹が出てしまい、両目が真っ赤に腫れ上がった。熱も出て、本当に苦しかった。この時初めて、私がどれだけのものを心の中に押し込めていたのか、周囲の大人は分かったと言う。それらの症状が治った頃には、自分でも少しだけだが落ち着いた。そこから、改めて私の不登校生活が始まったのだ。
まだ不安定ではあったが、6月の下旬頃には学校に行かない生活に精神的に慣れただろうか。家では、生活リズムを崩さないようにと「朝は皆と同じ時間に起きる」と約束した。でもまだ家から出られない私を、父はよく夜のドライブに連れて行ってくれた。また、母は陶芸教室に一緒に通ってくれた。私の家族構成は、祖父母、両親、弟の六人。昼間は、祖父母がいるので話し相手はいたが、同年代との接触が全く断たれていた。そこで両親は、家庭教師の紹介所をあたり、勉強を教えるばかりでなく、話し相手になってもらえるような人を探してくれた。その結果、「先生」ではなく「お姉さん」と呼べる人に出会えたのである。お姉さんは、学校に行っていない間の勉強を補いながら、悩みを聞いたり、他愛ない話にも付き合ってくれた。お姉さんとは、今でも家族ぐるみで親しく付き合っている。引きこもりがちだった私の生活は、家族やお姉さんの計らいで少しずつ外部に開かれていったのだ。閉鎖された環境において、気持ちが引きこもってしまわないために大切なのは、外部と繋がる窓口なのかもしれない。
そしてその年の12月、私は「学校へ行きたい」と思い始めた。だが、元いた学校へ戻る気はなく、隣の市の中学へ転校させて欲しいと両親に頼んだ。両親は、私の街の教育委員会、隣の市の教育委員会と忙しく走り回ってくれ、特例として転校することが許された。
〈後編へつづく〉